空が白んでくる時間に、のっそりと起きて、牛乳を飲む。「モー」とか言ってみたりする。ひとり暮らしが長いと、口がゆるんでいけないなぁと思ったりする。それからレッチリをかける。朝ご飯を食べる。冷たい水で顔を洗う。頭が覚醒する。雲がほのかに赤く染まっている。空がどんどん明るさを増していく。1日がまた始ろうとしている。
J.D.サリンジャーが死んだ。91歳だった。さすがに胸に去来するものがある。『ライ麦畑でつかまえて』、『ナイン・ストーリーズ』、『フラニーとゾーイー』、『大工よ、屋根の梁を高く上げよ シーモア-序章-』。少なくとも僕が読んだサリンジャーの作品は、どれも崩壊寸前の(そして、ときに崩壊した)イノセンスに貫かれた素晴らしいものばかりだった。もし、これまでで一番心の深い部分に届いた本はなにかと問われれば、僕はこれらの作品をまず最初にあげねばならない。サリンジャーは、活字嫌いだった僕が初めて夢中になった作家であり、折りをみては手にとって読み返した数少ない作家のひとりだった。
『ライ麦畑』の中で、ホールデン・コールフィールドが、寝静まった寮の廊下で叫ぶシーンは、10代だった僕に強烈な印象を残した。自分もホールデンと一緒に叫んでいるような、そんな共鳴が体中を走り抜けたのを、今でもはっきりと覚えている。それはまるでスプリングスティーンやディランの歌みたいだった。
サリンジャーは、40代半ばを最後に小説を発表してない。つまり、人生の後半はまるまる、作家ではなかったことになる。しかし、残した作品があまりに強い力をもってしまったため、彼は世間的には作家でありつづけてしまった。でも、そんなの、彼にはあずかり知らないことだったのかもしれない。
自宅に閉じ籠るように暮らした人生の後半の時間。彼がなにを求めてそうしたのか、僕には知る由もない。でも、もし彼が本当の静けさを求めていたのなら、今はただ安らかな気持ちであってほしいと願う。
思えば、もう何年もサリンジャーの本を読んでいない気がする。それなのに、彼がこの世を去ったら、こんな日記をつけたりする。結局、僕も「世間」の一部に過ぎない。世界中にいる僕のような人間が、彼を無言のうちに追いつめたのかもしれない。そんなことはないのかもしれないけれど。もしかすると。
それでもサリンジャーは生きた。91年間生きてから、死んだ。そのことに僕は感謝したい。死することと同様に、生きることもまたイノセンスなんだと、僕は思う。
MIYAI