2011年3月11日、知っての通り、
大きな地震があった。巨大な津波が発生し、
たくさんの命が奪われた。
数百キロに渡って町や村が荒廃した。
そして、原子力発電所では、
深刻な事故が起こった。
あれから2ヶ月。僕はほとんどなにもしていない。
せいぜい募金箱に気合いでお札を入れたり、
節電だとか言って、部屋の電気を消したり、
コンセントを抜いたり、あとは1度デモに参加したりと、
恥ずかしながら、その程度だ。
震災から間もなく、
東北のレコード屋さんにうちのCDが無事届いたと知ったときは、
心が踊った。
被災地に音楽を届けることができると思ったからだ。
僕は東北にある大小のFM局を調べ、
つたないメッセージを添えて、CDを送った。
なにかの力になれたらと思ってのことだ。
でも、その歌が被災地で流れたかどうかは、知らない。
ましてや、苦しんでいる人達の耳に届き、
わずかでも辛さを和らげることができたかどうかなんて、
知るよしもない。
でもCDを送ったことで、僕の気持ちはいくらか楽になった。
耳に届いたかどうかもわからないのに滑稽な話だが、
なにかの力になりたいという僕のエゴは、
このとき、いくらか満たされたのだ。
今、震災でこの国は非常事態にある。
あんなにも広い範囲に渡って荒廃した場所など、
世界中のどこをさがしても見つからないと、
ある戦場カメラマンは語ったそうだ。
そこに放射能の脅威が加わった。
今、生活と生存の狭間に生きている人達がいる。
今、この国は非常事態にある。
原発をすぐに停止しろと叫ぶ人がいる。
中には今がチャンスとばかりに、
その主張を突き通そうとする人がいる。
でも、僕にはそれが彼らのエゴに聞こえる。
原発の継続を支持する人達は、少し肩身が狭そうだ。
しかし、今の自分の生活を維持するために、
もしそう考えているのだとしたら、
やはりそれはエゴでしかない。
被災地へボランティアに行く人がいる。
必要物資を送る人がいる。
チャリティ・ライブをする人がいる。
募金箱を置く店がある。デモに参加する人がいる。
みんな被災地の役に立とうとしている。
でも、役に立っているとは限らない。
だって、物事の受け取り方なんて、
人それぞれなのだから。
喜んでいる人がいるなら、そうじゃない人もまたいるはずだ。
それでも、なにもしないよりはましだと言うかもしれないが、
(まぁ、ましかもしれないが、)
なにかすることで、自分の心を救っているのなら、
それもまたエゴなんだと、僕は思う。
善意のエゴだけじゃない。
悪意をはらんだエゴも存在する。
被災地での強姦や略奪。
汚い言葉を浴びせてくる人達。
僕らはそうしたエゴの存在も、知っておくべきなのだろう。
僕は正義を掲げるエゴイストがあまり好きじゃない。
自分のエゴを正義と重ね合わせるなんて、いただけない。
自分の都合ばかりを優先するただのエゴイストも好きじゃない。
悪意に満ちたエゴイストはもっと好きじゃない。
でも、こんなこと言うだけで、なにもしていない僕もまた、
エゴイストのひとりなのだ。
けれど、もし僕らがみんなエゴイストならば、
この世界を壊すのはエゴイストであり、
この世界を救えるのもまたエゴイストしかいない、
ということになる。
僕は自分の中のエゴを消すことができない。
僕は発言する。言いたいことを言う。
批判があれば、甘んじて受けるつもりだ。
でも、もしそれが僕の存在を否定するものであるなら、
受け入れるつもりはない。
だから、僕は誰も否定しない。
正義を掲げるエゴイストも、
自分の都合を優先するただのエゴイストも、
悪意に満ちたエゴイストも、
僕のようになにもしないでいるエゴイストもだ。
この世に存在する以上、僕は誰も否定しない。
なぜなら、世界はこんな僕らで成り立っているからだ。
わかりあうのは、なかなか難しい。
でも、時間をかけて、
お互いに馴れていくことはできるかもしれない。
そして、少し壁が崩れて、ちょうどいい距離を見つけたなら、
そこに共感できるなにかを見つけることだって、
できるかもしれない。
時間がかかるのは、しょうがない。
ここで一緒に存在する以上、
僕らはそうやって生きていくしかないのだと思う。
後ろ向きなことを言ってるように聞こえるだろうか?
今、震災でこの国は非常事態にある。
こんなにも広い範囲に渡って荒廃した場所など、
世界中のどこをさがしても見つからないと、
ある戦場カメラマンは語ったそうだ。
そこに放射能の脅威が加わった。
そんな時代を、僕らは生きている。
21世紀のエゴイストとして、共に生きていくことになる。
急いで解決しなければならないことも多い。
でも、先は長い。
長い長い道のりの第一歩を、今、
僕らは歩みはじめたばかりなのだ。
(2011/5/15 「持ち寄りPotluckナイト」@Bar Cane'sにて朗読)