久しぶりに大学時代の友人達と会って、当時のことをいろいろ思い出した。この15年ほどで世界は大きく変わったが、僕らはさほど変わっていないように思えた。でも、影響は確実に受けている。そうしたひとりひとりの小さな変化の集積が、きっとこの世界を大きく変えてきたのだろう。
昨日はジェリー・ガルシアの命日だった。1995年夏のことだ。よく覚えている。1月に阪神大震災、3月に地下鉄サリン事件、そして11月にはウインドウズ95が発売され、インターネットがコミュニケーションの中心となる準備が整ったのだ。振り返ってみれば、大きな区切りとなった年だったのがよくわかる。
ガルシアがデッドのメンバーと共に、ファンであるデッドヘッズ達をまきこんで実践してきたフラットでオープンなコミュニケーションの形。自由と共有の精神。そして、楽しむということ。インターネットはその可能性を飛躍的に押し進め、この15年でまったく別のものにしてしまった。顔の見えるとコミュニケーションと匿名の書き込み。リアルとバーチャル。もはや似てさえもいない。
僕がインターネットを始めたのはいつだったろう?携帯電話を持ったのは?今ではどちらも僕の生活に欠かせないツールとなっている。仕事でもプライベートでも。ちょっとした中毒と言ってもいいくらいだ。本を読む時間が減り、音楽と向き合う姿勢に影響を与え、退屈を奪われた。いつも誰かと繋がっていられるようになったが、なぜか以前よりも孤独になった。だから、僕はときどきノーを突きつける。拒否したくなる。なぜなら、それは僕が求めている楽しみと本当は違うからだ。
被災地は今も辛い現実がつづいている。原発の問題はより一層深刻さを増している。利権にまみれた政治家は信用できない。報道すべきことを黙殺しつづけるマスコミも信用できない。インターネットはそんな彼らに立ち向かい、世界に公正さを保つための強力なツールになっていると思う。でも、僕は取り込まれたくない。押し流されたくない。すべてのことを自分で判断し、行動していく。自分を見失わないためには、それしかないと思っている。
「楽しむことだ」とガルシアは言った。ザッツ・ライト。大切なのは楽しむことだと僕も思う。瓦礫の中で遊ぶ子供達のように、僕らも自分でそれを見い出せばいいのだ。
MIYAI